先日メンタルクリニックで医師に弱音を吐いた後、薬局で薬を待っている間自分の半生を思い出していました。
それを通して思ったことを書き出してみることにします。ADHDと関係があるのかどうかはわかりません。
興味のある奇特な方は一つのプロフィール記事みたいなものだと思って見てください。
精神年齢が同年代よりも3〜4歳低い気がしていた
中学生の頃、それまでの友達が音楽やファッションに目覚めていく中、自分はその流れに乗らずゲームをしたり漫画を読んだりしていました。
「まだそんなことやってんの?」とよく言われたものです。
高校に入ったばかりの頃、テストで低い点を取っては笑ってみたり、気が強いフリをしてみたりといったことをなぜか自分はやっていました。
でも、これって他の人たちは中学校の時点で既に通った道。高校に入ってまでそれやっている人なんてほとんどいませんでした。
中学校の頃帰宅部だったくせに高校に入り突然運動部に入部し、人より3年遅く部活に精を出そうとしたのもいい思い出です。(すぐに飽きましたが)
大学に入ると周りは明らかに大人。最初は同列に接してくれていた周囲の人たちも、遅刻や無責任な行動を繰り返す自分を自然と下に見るようになっていきました。
なぜか後輩には慕われたので、気の合う後輩や似たような気質の同学年とつるんでいました。
人にはそれぞれライフステージごとに対面し悩むべき課題があります。
どうも自分はその課題に他の同学年よりも数年後に直面している気がします。
こんなこと考えてるのは自分一人かと思っていましたが、ツイッターのADHD界隈を見ていると結構同じ感覚をもっている方を見かけるので、そういうものなんだなぁと思うようになりました。
気がつけば笑われている
酷かったのは中学、大学、そして社会人として勤務した無数の職場の中の2つですね。いわゆるヤンキー系だったりウェーイ系の人間がよく遠くで指差して笑ってるんですよ。
人一倍失敗ばかりでバカな行動をとる自分なので仕方ないことだとは思います。30歳を過ぎた今となってはもう達観してるのでどうでもいいんですが、思春期や青年期を過ごしていた当時の自分にとってはすごく辛い状況でした。
ちなみにそういうことやってくる人間は悲しいことに教師の中にもいるんですが、全て都会の若い先生でした。そんなんで子供に何教えるんだよって感じです。田舎にはそういう人は一人もいません。たまたまの話だとは思いますが。
そういう人間がそもそも存在しなかった高校は平和でした。今考えると、しっかりと受験対策をしてまともな教育環境に身を置くというのは大事なことなんだなと思います。
努力ができない
この人生において、努力をした試しがありません。
この場合の努力とは、
- 面倒だけどやらなければいけない
- みんなやってるからやらなければならない
といったもの。例えばテスト対策とか受験勉強とか家庭学習とかですね。
楽しいと思ったことは自然と続くんですよ。軌道に乗ったダイエットとか、バイクの免許取得とか。
特にバイクの免許は、その練習の先に待っている楽しい世界を具体的にイメージできていたことが大きかったです。欲しいバイクも決まっていましたし、行ってみたい所もたくさんありましたし。
要は、テストで良い点取ると何か良いことはあるのか、受験勉強をすると何か得はあるのか?そういうのがわからなかったんですよ。
「受験勉強頑張って良い高校に行くとヤンキーがいないよ」とか当時言われてたらそれこそサルのように勉強したと思います。
でもね、勉強や練習するときに子供が決まって言われることってそういう未来のイメージじゃないんですよね。
- やらなきゃだめだから
- そういうものだから
- それが普通だから
- みんなやってるから
- きちんと
- ふつうに
- しっかり
- まじめに
こういった言葉がほとんどです。
この手の言葉、自分のような人間には全く通じないんですよ。その言葉を受け取ったところでそれが行動に結びつくことはありません。
「それが普通なのはわかる。でも普通である必要はあるの?普通かどうかはどうでもいいから結局その行動って何の必要性があってやるものなの?」
今自分は何の間違いか小学校で教員をしていますが、子供たちを動かしたい時や刺激を与えたい時は、上で並べたような言葉を極力使わないようにしています。
周りの先生方からは「タビ先生の指示だと子供が動くね」「ダメな子もタビ先生だとまじめになるね」とかよく言われるんですが、自分からすれば当たり前の話なんです。
というかダメな子って何だよその言い方…
当時は何の努力もしない、ただただやる気の無い子扱いでした。自分も親を悲しませるのは好きではなかったので、親が子供部屋の視察に来た時だけは勉強をしているフリをして、それ以外はゲームしてました。
よくまともな高校に入れたなと今でも思います。
大学受験も無勉強、教員採用試験も無勉強。今自分がタイムマシン的な電話で昔の自分に声をかけることができるとしたら、何て語りかけよう?
とりあえず流されるまま教員になろうとしている自分を全力で止めにかかるのは間違いないですね。
部屋が汚い
物心がついた頃から20代の終わりまで、部屋は壊滅状態でした。母親は「片付けのしかたは子供の頃から教えてきたのに」と落ち込んでいました。
教えられても結局できなかったのだから、まぁそういうことなんでしょう。
原因となっている思考は
- あとまわし
- 必要性を感じられない
の2点。
そしてもう一つ重要なのが、「自分に管理できる物の量」の見極めができていなかったことです。
ここ数年、断捨離という言葉が流行っています。新しく入ってくるものを断ち、今あるものを捨て、ものから離れる。
素敵な考えです。ただ、自分の中により具体的に入ってきたのは「断捨離」ではなく「ミニマリスト」という言葉でした。
その理由は、断捨離が「片付けを最適化したい主婦の知恵」的な発想で生まれているのに対し、ミニマリストは「物に支配され生活にストレスが発生している状況から脱出したい」という危機感から生まれたものであるからです。ADHDの悩みと完全にマッチしたものだからです。
ミニマリストの理解と実践に関しては、かなりの手応えを感じることができました。
自分の中の生きづらさというものは、年齢を重ね経験が蓄積されていく中で、少しずつ工夫や知恵によって解決されていっているんだなと感じます。
「今やろうと思ってたのに」
あとまわしというやつですね。
世間と自分では優先順位がまるで違う。そして常識で考えると間違っているのは十中八九自分の方です。
小さな頃から何度「今やろうと思ってたのに」とブツブツ言ったことか。嫌になっちゃいます。
最近ではだいぶそれも減ってきましたが。
「自分的にはこっちをやりたいけど、普通はすぐにそっちを始めるものなんだよな」
という思考で自分を律しながら生活をします。どうせ失敗だらけの人生なのだから、せめて失敗から何かを学ぼうとした結果です。
天然と言われる
タビって天然だよね。小さな頃からよく言われていました。でも、天然ってのも物は言いようで、つまりは変な人ってことです。
学生時代は不思議ちゃん、社会に出ると困ったちゃん。 その通りだよなぁ。良い記事だと思った / “29歳、有名私大卒の彼女がADHDで抱える苦悩 (東洋経済オンライン) – Yahoo!ニュース” https://t.co/TMxLRUGH6g #ADHD #ストラテラ
— タビセン@はてなブログ (@Tabisensei) January 13, 2018
天然さんも、社会に出てしまえば周囲を困らせる存在でしかありません。
心の広い職場であればそれも一つの個性として許されますが、忙しさと数字に支配された職場に来てしまうとただただ迷惑なだけの存在です。
これは今の今まで続いている悩みです。
先輩に嫌われ後輩に好かれる
これ、子供の頃から今に至るまでずっと続いています。何なんでしょうね。大学の部活なんかが特に露骨だったなぁ。
ADHD云々よりも個人的な気質の問題でしょうか。
授業中眠い
正確には、「下手な授業中は眠い」。
ロクに文字情報をよこさず、ただただ無駄話をベラベラ喋り続けるタイプの授業や講義を聞いていることができませんでした。
もちろん例外もありますが、それは天才的に喋りが上手い先生の場合です。
大人になり自分も教員になってみてわかったことは、そういう「しゃべり授業」をする先生というのは授業の準備をロクにしていない人だということです。
結局、授業中に寝る自分が一番悪いんですが。
おわりに
今となっては何のためにこの文章を書いているのかもわかりませんが、とりあえずアップしておきますね。
ADHDの生態が気になる方の参考になればと思います。