いじめの原動力は正義感。異質なものを排除する思考

12年。

大学卒業後、自分が小学校教員という職業に費やした年月です。

その間、何度もいじめの事実を見聞きしてきました。

自分の担任する学級であったり、校内の他の学級であったり。

 

このページでは、いじめ問題への対策を担任レベルで考え続けた結果、自分が12年でたどり着いた思想、それをもとにした学級経営の考え方を語ります。

学者でもなんでもない一個人の思想ですので「あれ?」と思う部分も多いと思います。正解の押し付けではありません。1つの刺激として受け取っていただければと思います。

いじめられるのはいつも異質な存在

「いじめっこ」と「いじめられっこ」

「いじめられっこ」と「いじめっこ」。

この2者はほとんどの場合、お互いに異質な存在です。

いじめっこが運動好きであればいじめられっこは運動苦手。

いじめっこが成績の良い子であればいじめられっこは成績を取れない子。

いじめっこがハキハキしていればいじめられっこはおとなしい。

このように、お互いに異質な存在であることが殆どでした。

 

力をもつ側、もたない側

異質な2者はお互いにこう思っています。

「あいつはなんで変なんだろう」

自分と違うわけですから、「違和感」「変だ」という感情をもちます。

 

人と人が生活をすると、そこには「権力」「影響力」「暴力」といった様々な力関係が生まれます。

それらを持つ側が「いじめっこ」、

もたない側が「いじめられっこ」となります。

例えば運動好きが8人いて嫌いが2人だとすれば、自然と8人が権力を持つでしょう。

 

異質なものを排除する

「あいつは変だから自分の世界から排除しよう」

「あいつはできていないから見ていて気分が悪い」

「あいつは違うから迷惑だ」

力を持つ側は、自分たちの平穏を守るために異質な人間を排除します。

 

「自分たちが普通」

「あいつは異常」

この思考回路にある感情は「正義感」です。

力を持つ側は、自分たちが正しい、いわば正義の名の下にいじめをしているわけです。

 

この構図は子供に限った話ではない

わかりやすい例は「白人」と「黒人」です。

白人と黒人は同じ人間。結婚すりゃ普通に子供だって生まれます。同じです。

ですが歴史の中では白人が黒人を一方的に迫害し使役しいじめ殺害していた事実があります。

なぜか。

外見、文化、言語、土地、それらを「異質」とみなした白人は、自分たちが正しく黒人は排除すべきと錯覚しました。

やはり正義の名のもとに社会レベルのいじめをするに至ったわけです。

 

白人黒人の話はあくまで一例。他にもこの構図はいくらでも出てくるでしょう。

 

教員がいじめを無意識に扇動している可能性

教員が担う「統率」という仕事

日本の学校教育は一斉指導です。

そのため、学習成果をあげるために学級は統率される必要があり、教員がその役目を担っています。

「みんないっしょ」「ルールを守ろう」「同じ」「正しい」「正義」「なんでできないの?」

これらの言葉はどれも学級を統率するために出てくるものでしょう。

価値観の統一。画一的な指導。スタンダード。最近の学校教育の流行りです。

 

子供に植え付けられる「同じが正義」という価値観

何が言いたいかはもう伝わったと思います。

これら画一的な指導は、その指導の枠に入れる子供と入れない子供を明確に分けてしまうんです。

さらに言えば、「みんな同じでなければいけない」という価値観を子供たちに強烈に植え付けてしまうんです。

教師に悪意は無いでしょう。

学級を統率しようという教師の指導が、子供たちに「同じでなければいけない」という先入観を作る。やがて「同じじゃない人間を指導する、叱る、排除する、いじめる」という思考回路を生み出してしまう。

そう思うんです。

 

いじめ対策「異質をみとめる学級経営」

「同じ」「ふつう」を強要しない学級経営

同じであることが正義、ふつうが正義。

それらがいじめの温床となっていると仮定し、その正義を否定します。

 

目指す価値観は「多様性」。ダイバーシティの考え方です。

1年間の学級経営の根幹にそれを置き、学級目標から日常の授業まで、一貫して扱い伝えれば良いと思います。

 

「許し合う」「助け合う」「好きでつながる」

具体的には、「許す」「助ける」「つながる」といった行動を子供たちに求めます。

「許す」

優しさの極致のような行動です。

できないやつがいてもいいじゃないか。変だなと思うやつがいてもいいじゃないか。

誰かが失敗しても「ドンマイ」で終われる関係性を目指します。

当然、教師が率先してその姿勢を見せます。

 

「助け合う」

多様性の時代の肝となる行動です。

全員がなんでも普通にできるようになる、それを求めてしまうから「普通」「ちがい」「排除」が生まれます。

自分にできることで、できないでいる他者を助ける。

自分ができないときに、他者からの手を素直に受ける。

その姿勢を目指します。

 

「つながる」

学校に通う目的です。

好きなものを見つける。

同じものを好きな他者を見つける。

そしてつながる。

 

学級みんなが「仲間!」「チーム!」というのはいらないです。

好きな子はいいけど、それにハマれない子は辛いだけ。

ゆるく繋がれる「同じ沼の人を探す」程度でいいんです。

普段は同好の人同士でゆるくつるみ、必要に応じてそれ以外の人間とも最低限の協力ができる。

それでいいんですよ。

 

いじめ対策は小学校教員の価値観次第

子供たちが人との関わり方を知るのは小学校です。

以前中学校から小学校に転勤してきた先生が言っていたのですが、人との関わりを教えるのは中学校では遅すぎるのだそうです。自分もそう思います。

 

子供が他者意識についての価値観を身につける小学校段階において、どのような価値観をもたせるのか。

小学校教員が「画一性、普通、トップダウン」といった価値観を脱ぎ捨て、多様性を尊重する未来を見つめること。

「許し合える」「助け合える」「つながれる」子供を育て中学校へ送り出すこと。

それこそが小学校教員が個人レベルでできるいじめ対策なのではないかと自分は思います。

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